放っておいても良くなったかもしれない症状に、施術で介入する意味はあるのか。若手セラピストの問いへの回答
セラピスト向け
自然に良くなるかもしれない人に、自分が施術する意味はどこにあるのか
経過が良好な症例の報告が一段落したところで、担当の若手からふと出た質問。放っておいても無症候のまま経過したかもしれないものに、自分が施術する意味合いとは何なのか。とんとんが治療家向けに続けているオンラインカンファレンスで実際に挙がった、素朴で本質的な問いを掘り下げます。
質問が出たのは、血流障害の関与が考えられる神経症状の症例について、経過報告が済んだあとでした。症状は一番つらかった時期に比べて大きく軽くなっているものの、ゼロにはなっていない。そういう報告に続いて出た問いです。
前の検討で、この手の病態はもともと無症候性のまま経過している人が多い、という話を聞いた。では、そこに自分が施術する意味合いとは何なのか。目的は、つらさを感じる頻度を下げることや、慢性化を防ぐことなのか。そもそも自分はそこを理解できていなかった、という率直な質問でした。
まなぶ先生
教子先生
瀬谷崎『難しい質問ですね』から始まった回答
この問いは、言いかえると『放っておいても良くなる可能性がある人に介入する意味はどこにあるのか』という形になります。似た質問は同業の場でもたびたび出るもので、一言で答えを済ませられないだけの広がりがあります。
問いのなかに何が含まれているのか、先に分けておきます。
- 自然経過の見立て:介入しなかった場合、どのくらいの人がどう経過するのか
- 介入の目的:施術は症状の何を変えようとしているのか
- 患者さんへの説明:放っておいても良くなったかもしれない、という可能性をどう伝えるか
- 職業倫理:不要な施術を提供していないか、という自己点検
症状がある以上、目的は通常どおりでよい
検討で出た回答の柱はシンプルでした。いま症状がある以上、症状の改善のために通常どおり介入していい、というものです。無症候の所見に先回りして手を出す話ではなく、目の前の患者さんはすでに症状を訴えています。
介入の目的は二つの言い方で示されました。つらさや症状を感じる頻度を下げること。そして慢性化を防ぐこと。どちらも、症状のある人に対する施術の目的として、ごく普通のものです。
症状がある人には、症状改善という通常どおりの目的で介入してよい。ねらいは、症状を感じる頻度を下げることと、慢性化を防ぐこと。無症候かもしれなかった、という仮定は介入方針を変えません。
無症候から発症した人の、その後の幅
検討で前提になっていたのは、血流障害性の神経痛のような病態では、もともと無症候だった人が何かのきっかけで症状を出すことがある、という話です。そして発症した人の多くは、わりとスムーズに良くなっていきます。
ただし全員ではありません。一部には慢性化する可能性があり、症状が続く可能性も、それを機に悪化する可能性もあります。多くが良くなるという事実は、放置を勧める根拠にはなりません。
もうひとつの但し書きが、神経症状の性質です。神経症状は感覚が鈍くなる方向の変化、いわゆる鈍化を起こしやすく、みんながみんな症状が完全にゼロになるわけではありません。
多くはスムーズに改善する。一部には慢性化や悪化の可能性がある。神経症状では感覚の鈍さが残る場合がある。この三つが同時に成り立っているのが、実際の自然経過です。
教子先生
まなぶ先生
瀬谷崎説明では、治るとも放っておけば良いとも言い切らない
この経過の幅は、施術者の内心の見立てにとどめず、患者さんとの共有材料になります。施術すれば治りますとも、放っておけば大丈夫ですとも言い切らず、多くの方は良くなっていく一方で長引く方もいる、という幅をそのまま伝える形です。
感覚の鈍さが残る場合があることも、先に触れておく価値があります。症状が完全にゼロにならなかったとき、施術が失敗だったのか、神経症状の性質として起こりうる経過なのか。その解釈を患者さんと共有できるかどうかで、経過中の信頼関係が変わってきます。
可能性は頭の片隅に、介入は通常どおりに
自然経過に幅があるからといって、介入方針が複雑になるわけではありません。放っておいても良くなるかもしれない、という可能性を頭の片隅に置いたうえで、症状の改善という通常どおりの目的で施術を進める。検討の結論はそこに落ち着きました。
この構えは、症状のない画像所見への態度とも矛盾しません。無症候の所見はそれ自体を治療対象にしない。症状を訴えている人には通常どおり介入する。分かれ目になるのは所見の有無ではなく、症状の有無です。
瀬谷崎





